「夏の名前」
夏の名前(やま)
夏の名前 ~ やま ~ -1-
僕は今でも思い出すよ。
あの時の君の笑顔。
僕達は同じ道を歩むことはできなかったけど、
一緒に歩んでいたらって。
高校2年の夏。
僕は1ヶ月、祖母の家に滞在した。
東京でいろんなことがあって、ちょっと心を慰めるために。
祖母の家は海の近くの港町。
磯の香りと穏やかな空気の静かな町。
僕は毎日浜辺を歩いた。
特に何かすることがあるわけでもなく、ただ、海の景色を眺めた。
朝は澄んだ空気の中の太陽を。
昼は青い空を泳ぐかもめを。
夜は陸と海の境のない、闇の中の月を。
僕が君に出会ったのはそんな浜辺でだったね。
君はスケッチブックに何かを一身に描いていて、
僕はそんな君に興味を持ったんだ。
でもすぐに声をかけることはできなかった。
僕の心はまだ、殻にひびが入ったままだったから。
でもね、君の前を通る時、僕の心臓の音は少し大きくなるんだ。
もしかして、君が声をかけてくれるんじゃないかと思ってね。
そんな思いで君の前を幾度通ったことだろう。
何度目だったか…、君の前を通った時、
君が破いたスケッチブックの切れ端が、僕の方へ飛んできた。
僕がそれを拾うと、君と初めて目があった。
君の揺ぎの無い瞳は僕を捕らえて離さなかった。
綺麗だな、と僕は小さな声で呟いていた。
「何が綺麗なの?」
君の声は透き通っていて、ひどく繊細な気がした。
瞳はこんなにも力強いのに、表情はとても穏やかで、少年のようだと思った。
「え? 君が…、君の描いた絵が…。」
僕が拾ったスケッチは、風にそよいで揺れていた。
僕はそれを丁寧に広げて見てみる。
そこには、とても綺麗な少年が描かれていた。
儚げで優しそうな瞳。
「返してくれる?」
僕は黙ってスケッチを君に手渡した。
「名前、なんていうの?」
君はおもむろに僕の顔を覗き込む。
僕はまっすぐ君を見ることができなくて、下を向いていたみたいだ。
「…翔。」
「しょう?」
「空を翔るの翔」
「翔君か。」
君は僕の渡したスケッチをスケッチブックに挟んで言った。
「俺は智。知るに日って書く智。」
「智君…。」
「毎日、ここ通るよね?」
君はふふっと笑って話す。
柔らかくて優しい表情で、周りの空気まで穏やかにしていく。
知らぬ間に、僕までふふっと笑っている。
「どこに住んでるの?」
君は人懐っこい笑顔で僕の心に入り込んできた。
「…あの、少し上がったとこ…。祖母の家…。」
でもまだ僕はちゃんと君をみることができない。
君の笑顔が眩しくて、君の笑顔が見たくても、自分ではどうすることもできなかった。
「ふうん。明日は来る?」
「…うん。…たぶん。」
僕は君から目を逸らした。
このままじゃ、君に吸い込まれてしまうと思った。
海は君と同じで穏やかで、空は雲がたなびいている。
もうすぐ、空は朱色に染まる。
僕達は二人で、染まっていく空をぼんやり見ていた。
思えば、この時にはもう、僕は君に惹かれていたんだと思う。
それくらい、君の笑顔は眩しかった。
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